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スタッフブログ

2026.05.11
『くもをさがす』
皆さんこんにちは!新年度が始まったかと思えばあっという間に1か月が過ぎてしまいました。この調子でいくと2026年もすぐに終わってしまいそうです。一日一日を大切にしていきたいと思います。

さて、今回読んだ本は「くもをさがす」です。この本はノンフィクション小説です。以前から読んでみたいと思っていたこと、また一日を大切にしたいなと思っていたこともあり、この本にしました。

読み進めていく中で、印象に残った部分を一部抜粋して上げていきたいと思います。


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冬が始まっても、天気のいい日にビーチバレーをしている人を見る。目を奪われるのは若い女性ではなく、おばさんたちだった。膝にサポーターを巻き、突き指防止のテーピングをして、大声をあげながら砂だらけでボールを追うおばさんたち。彼女たちは、目がくらむ程美しかった。
20代の頃、年を取るのが怖かった。若さがすべてだ、おばさんになったら終わりだ。私たちの世代はそんな風に叩き込まれていた世代だった(残念ながら、今も日本ではそういう風潮があるようだ)。つまり、やはり脅されていた。
でも、自分が年を重ねておばさんになった今、何を怖がっていたんだろう、と思う。誰が私たちを脅していたんだろう。おばさんになったからと言って、自分の喜びにリミットをつける必要はない。
年を取ることは、自分の人生を祝福することであるべきだ。私は44年間、この身体で生きてきた。もちろん、身体的な衰えは感じる。そして私は、トリプルネガティブ乳がんを患っている。でも、私は喜びを失うべきではない。
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本の後半にも同じような内容が書かれていましたが、年齢を気にしてやりたいことに制限をかけること、また、見た目などを気にすることは心身豊かに生活するうえで必要でないことなのかなと思えました。
それよりも、自分がどうありたいのか、自分がどんなことをしたら喜べるのかを知ること、知ったらそれを行うことが大切なのではないこと思いました。
また、これは子どもたちにも同じように言えるのでないかとも思いました。何をやっているときに自分の心が動くのか、楽しいのかを聞きながら教室も進めていきたいなと感じました。



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インドから来たチェリシュマが言っていた。
しんどさは、「親や親戚(しんせき)が近くにいない状況のしんどさは、ほんまによう分かるから。」人は一人では生きてゆけない。改めて強く感じる。それは当たり前のことのはずなのに、やはり私はどこかで、一人でも生きて行ける、そう驕っていたのではないだろうか。少なくとも、東京ではそうだった。
32歳の時に、マンションを買った。人生で一番高い買い物に手が震えたが、同時に興奮していた。自分がこんなことを成し遂げられるなんて、思ってもみなかった。それから猫を拾い、夫と出会って結婚したが、独立した人間であることは絶対に手放さなかった。銀行のことも、病院のことも、ローンのことも、もちろん駐車場のことも、自分一人で出来た。一見困難に見えることでも、努力すれば、必ずなんとかなった。
でも、バンクーバーでは、歯が立たなかった。どれだけ努力しても語学力には限界があり、それだけで可能性がうんと狭まった(なにせ、クリニックへの電話一つも出来なかったのだ)。
ああ、自分は一人では何も出来ないなあ。弱いなあ。日々、そう思った。そしてそれは、恥ずかしいことでも忌むべきことでもないのだった。ただの事実だった。
私は弱い。
私は、弱い。
日々そうやって自覚することで、自分の輪郭がシンプルになった。心細かったが、同時に清々(すがすが)しかった。
だから私は、柔術に夢中だったのだ。格闘技の経験もないし、勘も鈍い。すぐにパニックになるし、気がついたら息が止まっている。私は、徹底的に弱かった。誰とスパーリングをしても、こてんぱんにやられた。時には、しばらく寝転がったまま、次のクラスが始まるまで動けないこともあった。大の字になって道場の天井を見ていると、
「弱いなあ、自分。」
と、思った。もちろん情けなかったが、その情けなさを受け入れると、何かに触れるような気がした。自分がこの体で、圧倒的な弱さと共に生きていることに、目を見張った。
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私も作者が東京にいたときと同じように一人で生きていけると考えていましたが、年々そんなことはないかも。と心のどこかで思っていました。やはり自分にはできる限界があること、弱さを知ること、一人では生きていけないことなどを知ることは今後の人生において大切なんだなと思いました。うまく人に頼りながら業務なども行っていきたいと思いました。



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正直、店や企業のサービスは日本と比べると格段に劣る(というより、ただリラックスしているだけだと思う)が、職場を離れた彼らは、街で他者の居場所を守ることを是としている。老人に席を譲るのは当たり前だし、ベビーカーには一番広い場所を譲るし、子どもたちが大声を出すのは仕方がない。だって子どもはそういうものだから。
もちろん、日本の狭さは、ネガティブなことにだけ作用しているわけではない。言うまでもないが、狭いスペースだからこそ、奪い合うのではなく譲り合う精神も確実に存在する。そして、自分のスペースを削ってでも他者のためにあろうとする姿勢は、上からの強制や「見え」を気にする気質からだけではなく、日本人の持つ根本的な優しさからも来ている。そう、みんな優しいのだ。シャイな人は多いが、何かをお願いすると、こちらが恐縮してしまうほど全力で助けてくれようとする。
バンクーバーに数年いた私が感じたのは、日本人には情があり、カナダ人には愛がある、ということだった。感覚的に感じたので、その違いを説明することはなかなか難しいのだが、カナダ人は、「愛を持って人に接する」という強い意志と共に行動しているように感じる。信仰のあるなしにかかわらず、愛を持って人と接することは、そして、愛のある人間として生きることは、彼らの尊厳の問題なのではないか。
そして、日本人の場合、愛は後天的なもののような気がする。
情は、意志を持って、そして尊厳のために獲得するものではなく、気がつけば身についているものだ。目の前に困っている人がいれば、愛を持って立ち上がる前に、なんかもうどうしようもなく(あるいは渋々)手を伸ばしてしまっている。もしかしたら本人は面倒だ、嫌だと思ってしまっているかもしれない。もしかしたら自分の方が困った状況にあるのかもしれない。自分の居場所を譲るのは、本当は死活問題で、でも、もうそこにいる困った人を、どうしても、どうしても放っておけないのだ。
愛がいつも良き心、美しい精神からきているのに対して、情は必ずしも良き心や美しい精神からきているとは限らない。だから情は、それによって状況をさらに悪化させたり、時に人間を醜く見せたりもする。情に流されて悪事に手を染めたり、絶対に許すべきではない人を許してしまったりする。絶対に分かり合えない、顔を見たくないと思っている誰かの悲しげな背中を見た時にホロリとしてしまうのは情なのではないか。
明らかな悪縁だと分かっていても断ち切れず、また手を伸ばしてしまうのは、情なのではないか。自分の手も傷だらけ、血だらけ、泥だらけだというのに。日本人の手は、情でしっとりと濡れている。そしてその湿度は、時に素晴らしい芸術へと昇華される。
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この「愛」と「情」は私も感覚でなるほどー。と思いました。決して否定はしてないのですが、本を読み進めていく上で腑に落ちたように感じました。
この「愛」と「情」どちらかというと「愛」の方を大事にしていきたいと思ったので、教室然り日常生活でも愛を持って人と接していきたいと思いました。


今回この本を読んで、自分自身のあり方や考え方を考えさせられました。また、共感した部分も多くあったので、今後の自分の人生に役立てていきたいと思います。


有水愛佳